仏陀が世をみて思うことは、今も昔も同じである。
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釈迦の初転法輪より
釈迦は、菩提樹下に坐して思惟した。
「私はここで一切の漏(煩悩)を尽くした。しかし、私が体得した法(真理)は深く、解し難く、ただ仏のみがこれを知る。一切衆生は五濁の世にあり、貪欲・瞋恚(怒り)・愚痴・邪見・驕慢(おごり)・諂曲(こびへつらい)に心はおおわれ、福徳は薄く機根は鈍く、智慧はない。もし、転法輪(説法)をなせば、人々は戸惑って信じることはできない。かえって、法をばかにして誹謗し、悪道に堕ちて苦を受けることになろう。私は何も語らずに涅槃(さとりの静まり)に入ろう。」
そこで、バラモンの主神ブラフマー(梵天)が、釈迦如来に勧請する。
「なにゆえ、説法をされないのでしょうか。衆生は今、長夜に生死し、無明の闇に沈んでおります。・・・願わくは世尊、大非力をもって法輪を転じられますよう」
インドラ、第六天の魔王も、同じく願った。
しかし、釈迦如来は、
「この法は微妙甚深にして解し難し。衆生は信受すること能わずして誹謗の心を生じ、地獄に堕せん」と答えて動じなかった。
それで、重ねて勧請をするにおよぶ。
七日たち、ついに如来は説法の請いを受け入れた。最初の説法に選んだのは、共に苦行した五人の比丘たちであった。
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無上甚深微妙法 百千万刧難遭遇
正に、真理は、その通り。同じ境地にあります。
安易に言葉だけを鵜呑みにして、真理を知ったつもりで行動していると、魔に堕ちたり、悪行を積んで地獄に堕ちたりするものも見てきています。一般公開したところで、良きことも起きないことを実際にみてきました。ゆえ、単に真理をなぞり真似をする人がいますが、短絡的に人の真似はするものではないと肝に命じておいた方がいい。中身がまったく違う浅はかなもので利を得ると、まやかしとなり、魔の手が近づいてくるものですから。
そのため、真理は奥に位置しているものなのです。
それは、皆のためでもあるということ。安易に手にするものではないこと。そして、真理を得ていくときには、心得が必要であることも知っておくとよいでしょう。
学びに来られている皆さんは、確かなものを、段階を踏みながら体得をしていけるように受講していただいています。浄める基盤づくりには、継続していて最低3年はかかります。
何年も重ねて重ねて来られて、今ここにきて、真理に目覚めていく方たちが誕生していることが喜ばしいことです。そして、皆さん、普通の中で活躍されています。
さて、私は、卒業したアカシック・レコードに名を残す必要もないですし、天網からも外れていますので、真理存在たちとともに、本格的に自分の位置についていこうと思います(そう言われています)。一般向けの投稿も頻度が少なくなる可能性がありますが、魂がやるべきことに邁進してまいります。
真の天からの授かりものは、心得のある清められた器に降りてくるものです。
多大なる真の存在たちの導きを得て、ここに在ることに感謝を捧げます。
そして、これからも、皆さまとともに歩んでまいります。
天結
岡崎美穂